シアターP の呟き(もしくは嘆き)

耳あり芳一

例えば、あなたの目の前に一人の男が座っている。

 

坊主頭で、量販店のシャツを黒いズボンに入れて、こちらに顔を向けている。見たくもない、見たくなくもない、無愛想な顔である。

 

男の前にはリンゴが置かれている。旨そうでも、不味そうでもない、無愛想なリンゴである。

 

男はあなたと目を合わせ、唾を飲むようにゆっくりと言った。

 

 

 「私は、これから、このリンゴを、食べます」

 

 

上記の発言から既に47分が経過している。まだリンゴは食べられた様子はなく、男もリンゴも無愛想なままだ。 今の状態から、あなたは何を思うだろうか。

 

男に対しての不気味さ、不穏さ、緊張を感じるだろうか。その有言不実行をなじるだろうか。では、となじり始めようとしたその瞬間、男がリンゴを齧り出し

 

 

「旨いですよ」

 

 

と微笑みかける。 どうであろうか。先程感じた不気味さ、不穏さ、緊張は消え失せただろうか。

 

もしくは 「これは一体何なのだろうか?」 とは思うかもしれない。

 

 

そうなのだ、一体何なのだろう?

 

 

例えば、誰かと待ち合わせる。 「夕方5時に、池袋の東口のふくろう像の前ね。遅れないでよ!」

 

 

……現在、5時から既に47分から経っている。彼女はまだ来ない。ふくろう像も飛んで行く訳でもない、私は飛んで行きたかった。夕日と一緒に沈みゆきながら思う。

 

 

「これは一体全体何がどうなっているんだろうか?」

 

たとえば誰かを愛している。

 

その誰かは何も言わずにあなたを殴り、蹴り、引きずり回した。

 

 

……最後の平手打ちから47分が経っている。

 

その誰かは静かに泣き崩れ次の2点を言い訳る。

 

 ・暴力に対する謝罪

・あなたを愛するが故の暴力である、という理屈

 

 

あなたが割りと気持ちを落ち着かせたら-水でも3杯くらい飲んで-、こう思うだろうか?

 

「そう、私も悪かった」

 

 それともこうだろうか?

 

 「コイツは何をヌカしてるんだろう?」

 

 前者ならその「愛とやら」は続き、後者なら終わる。 その「愛とやら」が続く場合あなたは、あなたに振るわれた暴力と、その結果である捻挫、打撲、ムチ打ちよりも誰かの言葉(「あなたを愛するが故」という)を信じていることになる。

 

 

その「愛とやら」が終わる場合あなたは、あなたがヌカされた言葉よりも、あなたの体に刻まれた生傷や痣、たんこぶを信じているということになる。

 

 

人は(私は?)当事者でない限り、前者を不思議に思う。すごく単純に「殴られてるのに何故?」と考える。 しかし、たとえばその誰かが、3年前に初めて出来た恋人で、初デートの遊園地が雨だったことや、バイクに2ケツして理由も無く海まで行ったこと、夜中に突然呼び出しても笑顔で肉まんを買って駆けつけてくれたこと、自分の浮気を許してくれたこと、最近残業続きで目に見えて疲れていそうだったこと、それらを天秤にかけるとどうだろう。前者の秤は狂っているのだろうか? 後者の、もしくはそのどちらでもない第三者の秤こそが正常なのだろうか?

 

 

 

「リンゴと男」に戻ろう。

 

 

例えば男が毎週必ず一回 「私は、これから、リンゴを、食べます」 と発言し、決まって小一時間(約47分)経ってから、食べ始める男であることを知っている場合、不気味さや不穏さは和らぐのではないか。 「なんだ、またか」 と思うのではないか。

 

 

人は(私は?)、人(他人)のことを言葉と行動の整合性、それらの積み重ねによって判断する。「リンゴを食べる」発言から2週間経っても男はリンゴを食べていないようだしリンゴも腐敗臭を発し始めた場合、男は「リンゴを食べる、と言うけれど結局食べない奴」として人(他人)に認識され、それが毎週火曜日とかに定期的に続くと、その印象は強化される。

 

同時に「リンゴを食べる」という発言に対する信用も薄らいでいく(どうせ食わねんだろぅ?)。

 

つまり「リンゴを食べる、と言うけれど結局食べない」と思われている「奴」がいくら「リンゴを食べる」と豪語しても、結局は他人から「奴」の言葉への信用=期待値(奴は本当にリンゴを食べるであろう、という期待)は上がらない。

 

「リンゴを食べる」と50回言って、実際48回食べた奴は、「リンゴを食べる」50回言って実際2回食べた奴よりも周りからの期待値は少なくとも24倍は高い。少なくとも、と書いたのは、失敗の割合が極端に低いとその失敗は不運や偶然として過小評価されやすいからだ。

 

「"リンゴを…"48/50の奴」の期待値>「"リンゴを…"2/50の奴」の期待値

 

なのは確かだが

では

 

「"リンゴを…"と言ってリンゴを食べる奴」と「何も言わずにリンゴを食べる奴」はどういう関係性にあるのか。

 

A:「"リンゴを食べます"」と言う、という言動は、誰か言葉を受ける対象がいて初めて成り立つ動きである。ここでは深夜のマクドナルドで一人呟くおばさんや、駐車場の野良猫に話しかけるおじいさんは無視しよう。つまり、何かを言う、という動きは少なくとも、誰かに何かを印象付けたい、という意味だと思われる。"リンゴを…"の場合は「アイツは"リンゴを…"ということを言う奴だ」という風に印象付けたいという意思の表れである。「アイツは"バナナを食べます"ということを言う奴だ」と印象付けたい奴は"リンゴを…"とは言わないだろう。

 

 

B:"リンゴを食べる"という行為は、その行為を見る対象がいなくても成り立つ動きである。腹が減ろうが、誰かとの約束を果たす為だろうが、親友の49日だろうが、理由はなんであれこの世に数多くあるリンゴの内一つが誰かに咀嚼され、飲み込まれ、消化される、ということである。このリンゴが噛み砕かれ、飲み込まれ、消えてなくなる過程は見ている対象がいようがいまいが同じである。

 

 

「"リンゴを…"と言ってリンゴを食べる奴」というのは(AでかつB)という奴("a"とする)である。aはこの発言+行為によって「"リンゴを食べる"と言って、その後リンゴを実際に食べる奴」という印象付けられる、と同時にaは「発言内容を実際に行為に移す奴」という抽象的印象も獲得する。この結果aがリンゴを食べ終えた後"私は、これから、バナナを、食べます"と言った場合、それを聞いている人たちは「コイツは次もホントにバナナを食べるのではないか」という期待が生じる。つまりaの言葉に信用が生まれる。

 

 

「何も言わずにリンゴを食べる奴」は(AではないがB)である奴("b"とする)である。リンゴを食べる、という行為が誰にも見られていない場合は、この世の数多あるリンゴが一つ誰かの胃袋に静かに消えゆくだけである。

リンゴを食べる、という行為を誰かが見ている場合そこから分かることは「bはリンゴを食べる奴である」ということである。しかしそこから次にbの前にバナナが置かれた場合、bがバナナを食べるかどうかは全く分からない。「果物好きなのだろう(=だから食べるだろう)」という予測も「バナナアレルギーかもしれない(=だから食べないであろう)」という予測も全く等価である。bは発言と行為が繋がってない(というか発言が無い)ので、aのような抽象的印象(「発言内容を実際に行為に移す奴」)は獲得しない。

 

つまり

 

aは「"リンゴを…"と言ってリンゴを食べる奴」という印象と、「発言内容を実際に行為に移す奴」(重複部分あり)という2つの自己の印象付けが達成される。

 

bは「リンゴを食べる奴」という印象付けのみが達成される。

 

 

つまりリンゴの後に、「バナナ、キウイ、ドリアンも実際に食べるのではないか」という印象を自己に付けたい人間はaの様に、「"リンゴを…"と言ってから実際にリンゴを食べ」た方が抽象的印象(「発言内容を実際に行為に移す奴」)=発言への信用(期待値)を獲得しやすいので有利ある。

 

 

しかし発言は必ず行為に結びつきうるかと考えると、そうとは言いきれない。

 

例えば「私は、リンゴを…」と言って、目の前にあるリンゴを食べずに男は立ち去った、とする。それを見ていた人は「男はリンゴを食べなかった」との認識を持ち、翌日男にそのことを問うと、男はこう返した。

 

「食べたよ、家で」

 

 

こうなると行為を確認できなくなるので、男の発言と行為は、行為の不確定により、関係性を結ぶことが出来ない。

 

 

 

ある日、自宅のポストに一通の郵便物が入っている。淡い青色の封筒に達筆で宛名に自分の名が書かれている。久しぶりに受け取る葉書ではなく手紙。誰からだろう?

 

封を切り、便箋を取り出すと引き続き達筆で次のように書かれていた。

 

「私は、これから、リンゴを、食べます」

 

 

封筒の裏には知らない名前と少し遠い住所が書かれていた。

 

 

 

この場合、手紙に書かれた文章はどのように機能するのか。

 

1.まず手紙という手段から、受取人にのみに内容を伝えようとしている意思が比較的強い。「発言」という方法だと第三者に聞かれる可能性、聞かせる(聞かせられる)力が大きい。例えば1000人に伝えようとする場合一人一人一通ずつ手紙を書くのは、時間も労力も浪費量が大きく、能率が悪い。1000人に向かって拡声器で叫んだ方が手段として早く、容易である。

 

2.手紙の内容(この場合は「私は、リンゴを…」)はそれが事実かどうかを立証するのは限りなく不可能に近い(この場合なら、すぐに差出人の元を訪れ、その人の胃の中に手を突っ込むなり、カメラをねじ込むなりして未消化のリンゴの存在を確認しなければならない、いやその頃にはもうウンコになっているだろう。)

しかしこの文章が全くの嘘とも断定できない。何故なら、この場合は行為がほぼ確認できないので、文章と行為の関係性が結ばれず、宙ぶらりんである為である(上記A、Bで表すところの"AではあるがBでない")。

つまりこの文章(「私は、リンゴを…」)は殆ど文字郡としてだけ存在している。受取人は「えっ、そうなの?」か「あぁ、そうなの」の軽い疑問か軽い肯定をする。「軽い」の意味は疑問と肯定が容易に逆転しうる、というほどの意味である。

 

しかし行為が確認できる場合もある。例えば「私は、これから、お前を、殺す」などという場合だ。自分が今殺されつつあると考えられる場合(自分の下っ腹からさっきからもう30分以上血がドクドクドクドク出続け、意識が白く遠くフェードアウトしていく、などと言う場合か)はこの文章は行為と一致しているということになる。

自分が殺されていないと考えられる場合(出血量は大したことない)は行為は達成されていないので、この文章は行為と一致していないということになるだろうか、いやならない。何故なら、これから死ぬかもしれない可能性(つまり未来)を捨てきれないからだ。

別に今殺しに来なくても、明日明後日10年後に殺しに来るかもしれない。その場合は10年間は言葉が宙ぶらりんし続け、10年と1日目に行為と結ばれる。

 

つまり、「手紙の内容と行為が一致する」場合と「今現在一致していないが、未来に一致しうる場合」の2パターンがある。 

 

 

ところで、この手紙の差出人が知人だった場合は事態はどうであろうか。

 

つまり受取人が差出人の情報をどれくらい持っているかで話は変わるだろうか。持っている情報が少なければ少ないほど上記の場合(知らない人からの場合)に近づき、多ければ多いほど(例えば、「アイツはリンゴアレルギーのはずだから、この文章はおかしいな…」など)文章と行為(知人がどういう行為を取りうるか)の関係性を推測できる、だろうか。

いや、急いで書き足さなければならないが、それは所詮推測に過ぎない。リンゴアレルギーだが意を決して食べたかもしれないし、恫喝されて無理矢理食べさせられたかもしれない、もしくは普通に食べなかったかもしれない。 

 

もちろん知人が殺しに来る場合も大いにある。

 

 

 

従って知人の場合でも知らない人の場合でも同じである。

 

 

 

 

いつものようにパソコンのメールボックスにアダルトサイトらしき差出元からメールが送られてきていた。私はこれらを迷惑メールと呼ばない、福音と呼ぶ。

 

どうせメールを開けたり、その中のアドレスにアクセスしたりすると無差別級の料金請求(もちろん無視)やらブラウザクラッシャーが発生したりするだけだ。そんなことに怯んではいけない。まぁ、それまで十二分に楽しませてもらいましょうと、いつもどおりメールを開封した。

 

しかしメールの内容は「アイドルの流出画像」だとか「美人女優●●の…」なんていう釣り文句ではなく、不可解でシンプルな文言であった。

 

 

「私は、これから、リンゴを、食べます」

 

 

私は何だか気味が悪くパソコンを消した。いつのまにか窓の外から聞こえていた子供達の遊び声が消えていた。

 

 

 

 

さて、メール及びネット系のコミュニケーションツール(メーリングリスト、Twitterなど)はどうであろう。

 

検討するまでもなく手紙と同じく行為は確定できない場合もあるし、できる場合もある(理由「手紙」に同じ)。では手紙と全く同じか?

 

違う。「メール系」の方法は「手紙」よりもずっと、もしかしたら「発言」よりもずっと大多数の人に聞かれる(聞かせられる)力が大きい(時間と労力の浪費が少なく、比較的能率が良い)。

 

 

なので「発言」「手紙」「メール類」の行為との関係性、方法を整理すると以下のようになる。

 

上記<行為との関係>の表にみられるようにそれぞれは行為と関係性がある場合と、関係性があるかどうか分からない(決定できない)場合は確かにありそうである。

 

では絶対に行為と関係のないと決定できる言葉や文字はあるか。

 

関係がある、もしくは関係があるかどうか分からない言葉や文字というのは、ある種の宣言である。「私は、これから、リンゴを、食べる」「行ってきます」「いただきます」「また明日(会おう)」などなど。つまり発言者や執筆者がこれから行おうとしていること(もしくは行っていること)を、誰かに伝えようとする文字・言葉である。

 

つまり発言者や執筆者がこれから行おうとしていること(もしくは…)を、誰かに伝えようとする旨以外の文字・言葉は、行為と関係がないと決定できる。「この花は綺麗だ」「ブラジルは遠い」「カレーパンにはカレーが入っている」「坂道で死ぬ」などなど。これらは物事の状態を描写するような文字・言葉である。

 

おそらくこの分け方だと殆ど全ての文字・言葉は後者に入る気がするのだが、まぁよし。

 

では情報を伝達する<方法>と、行為、とそこから発生しうる印象とどういう関係をもつか。

 

まず<手紙>であるが、手紙は面識(少なくとも送り先の住所を知っているという程度の)がある個人及び小集団を相手にする。1枚の手紙を最高何人で回し読みできるかはわからないが、何千人で回し読むのは難しいであろう。また絵葉書など写真を添付したり自分で絵を書き足したりできたり、手紙を書き慣れた相手だと文字の書かれ方(乱雑~丁寧)がわかり、また何度も読み返すことが出来る。

 

 

次に<発言>であるが、これは<手紙>と同数若しくはそれより多数で、<メール系>よりは少数の個人及び集団を相手にする。個人の声が距離的に最大どこまで届きうるのか分からないが、Twitterなどのように一度に何万~何十万人に対して定期的に素早く情報を伝達することは労力的に難しい。また発言は発言者が目に見える位置にいる場合、その人の表情、姿勢、身振り手振り、言葉の抑揚、語気など発言全体の情報量が他よりも圧倒的に多い。

 

 

そして<メール系>であるが、これは手紙よりは面識のハードルが低い(メールアドレスさえ知っていれば良いし、今日メールアドレスは無料で手に入れられる)。写真添付など{<手紙>+<発言>}とほぼ同じ(動画などは再生時間によっては容量が大きく、無料アドレスでは添付しきれない場合がある)であるが、相手に出来る数と能率が圧倒的に違う。

 

つまり相手にできる数については上記もしたが

 

[手紙] < [発言] < [メール系]

 

であり、情報量は

 

[発言] > [メール] > [手紙]

 

となっている。

 

情報量の大きさは伝達する際に、どのような利害があるか。

まず伝達できる情報量が

 

発言:100 メール系:50 手紙:30

 

とすると、情報量88の内容を伝達しようとする場合、発言だと0.88回、メール系だと1.76通、手紙だと2.93通の回数で伝達できる。単純に<発言>と<メール系>と<手紙>を用いる一回当たりの労力が同じと考えると、88の内容を伝える<発言>:<メール系>:<手紙>の労力比は

 

<発言>:<メール系>:<手紙>=<1>:<2>:<3.3>となる。

 

実際は個人がそれぞれ使い慣れている方法により労力は違うはずで、上記は単純化している。

では誰か一人に情報量88の内容を伝達する場合、上記のような労力比を感じる人は<発言>を用いるのが一番効率的か、というとそういう訳でもない。

例えば<発言>は文字(特に漢字)化されず、音だけで理解しようとするので、同音異義語や自分の知らない単語、または指示代名詞(あれ・それ・これ・どれ?)などが頻繁に複雑に連続に出てくると内容を理解するのがとても難しくなる。

 

例)・専門家による素人への容赦のない説明

 

<メール系><手紙>の場合は文字として目にすることができるので、単語での間違いが比較的犯しにくく、文脈読解に集中できる。また足りない箇所は絵・イラスト・図(<メール系>の場合は+音声テキスト・動画)でも情報を追加できる。

 

つまり情報の受け手からすると

 

<発言>は単語と文脈の理解を同時に行わなければならず

<メール系><手紙>は比較的、文脈理解のみに集中できる

 

では<発言>は情報の伝達に必ずしも不利かというと、そうでもない。向き不向きがある。<発言>という方法にしかないものは表情、姿勢、身振り手振り、言葉の抑揚、語気をリアルに(目の前で、という意)感じることができる。近ければ近いほど、例えば鼻息を感じたり、身振り手振りが当たったりする。Skypeで画面越しに激怒されている場合と、実際に自分の胸倉を掴まれている場合は、多分情報の受け取る量が違う。

 

では「鼻息」や「身振り手振りの接触」や「胸倉」とは何か、というと「感情・感覚」である。つまり<発言>という方法はそれらの伝達に非常に親和性が高い、というかそれが殆どである。それ以外(つまり論理)は他の方法で、かつそれ以上の効率で代用しうるのである。

 

という訳で<方法>とそれがもたらす印象だが、

 

論理的だ、という印象は

 

[手紙] ≧ [メール系] > [発言]

 

となり、感情的・情緒的だ、という印象は

 

[手紙] ≦ [メール系] < [発言]

 

となりやすい。

 

なので、仮に<発言>しなければならないが、どうしても「論理的だ」と印象付けたい場合は書く様に話せばよく、<書>かなければならないが、どうしても「感情・情緒を失っていない」と印象付けたい場合は、話す様に書けばよい、と考えられる。

 

しかしこれも結局は受け取り手の能力次第である。

 

受け取り手がどんな意思疎通の方法を得意(効率よく理解できる)としているのか(話を聞くのが得意なのか、書面で読むのか、Twitterをフォローするのか)による。

 

極端なことを言えば、耳の聞こえない人に<発言>し続けてもほぼ無意味(読唇術の分を除いて)である。そういう時は手紙・メール系を使った方が効率が良い。

 

従って初対面の人に丁寧に接するのは、礼儀以外にも意味がある。それは発信者が受け取り手の理解力を探っているのである(どの方法がベストなのか?)。