シアターP の呟き(もしくは嘆き)

義務と自由と、うんこと権利6

私(27歳・男性・一人暮らし)は、「自分がうんこを漏らすことを他人に非難される筋合いはないのではないか」と思う。

 

たとえば、「母親が自分の息子のうんこを漏らすという行為を非難する」という場合、母親は息子の白ブリーフ(もしくはトランクス)を洗濯する義務的労働を課されていて、かつ、その防げたはずの事故(我慢し得たうんこ)による労働量の増加という面と、自息子への教育(うんこを漏らさない人間になってほしい)の権利、という二側面から、母親は息子を叱責する権利を有する(と思う)、そしてその息子は泣きながら反論する権利を持つ。

 

では私のような(27歳・男性・一人暮らし)人間の場合はどうだろう。

 

私は、たまに、うんこを漏らしてしまう。もう少し具体的には、私は高音の屁をしたときは70~80%の確立で少量のうんこがパンツに付着していることを知っている。他のみんなは、黒系のブリーフを履いていることと、いちいち確認するのが面倒くさいことから、他のみんなにとって、「何もなかったこと」、になっているが(‼)、みんなも私同様漏らしていることを、私は知っている。

 

しかし、私ような人間の場合、私の黒ブリーフを洗うのは私だし、27歳にもなると最早誰からも「うんこを漏らさない人間になってほしい」と思われてもいないので(簡単に言うと「みんなに諦められている」ので)、その「匂い」を除いて、誰にも迷惑はかけていないし、「私がうんこを漏らさない人間になる可能性」も完全にないのである。

 

 

では(もしくは「でも」)、匂いは、ダメなのか?

 

では、何故そこらへんのババアの強すぎる香水はよしとされ、私のうんこ臭はよしとされないのか?何故そこらへんのジジイの限りなく防臭剤に近いシャネルの何とかは許され、私の限りなく昨日のカレーに近いうんこ臭は許されないのか?


 

 

何故、ババアは間違っていないとされ、私は間違っているとされるのか?

 

 

私が理性的なものを欲するばあいは、私は一個特殊の個人としてではなくて、倫理一般のもろもろの概念にしたがって行為する。倫理的行為においては私は、自己自身を押し通すのではなくて、ことがらを妥当するようにさせるのである。

だが人間は、なにかまちがったことをするによって、自分一個の特殊性を最も多く突き出させる。(p101ヘーゲル「法の哲学」(訳)藤野渉 赤沢正敏)