シアターP の呟き(もしくは嘆き)

義務と自由と、うんこと権利7 ~トイレへの長い道~

「うんこを漏らすこと」が禁止されている世界を考えてみよう。


「んな、バカな。」と言わずに。だって昔は「変な」世界がいっぱいあった。奴隷制や植民地主義やら、人種差別やら(まだあるかもしれない)…。

 


アフリカ人たちは、法的な助けを心から求めていた。白人専用ドアを通るのは犯罪であり、白人専用バスに乗るのは犯罪であり、白人専用水飲み場を使うのは犯罪であり、白人専用海岸を歩くのは犯罪であり、午後十一時以降戸外にいるのは犯罪であり、失業しているのは犯罪であり、妥当でない場所で働くのは犯罪であり、ある特定の地区に住むのは犯罪であり、住む場所がないのは犯罪なのだ。(p214「自由への長い道 上」(著)ネルソン・マンデラ(訳)東江一紀)

 

 

もはや何が「犯罪でないのか」を知りたいくらいである。

 

「自由」と名の付く(もしくはその周辺の)本を読んでみて分かったことは(同時に分からなかったことは)、わたしにとって「自由」のイメージは、もっと具体的で、実際的なものであった。

 


たとえば、大きな公園で日向ぼっこしながら煙草を吸うとか、酒飲みながら経済学の本を読むとか、口笛吹きながらうんこ漏らすとかそういうことである。

 

 

でも、たぶん”そういう奴”というのは多分社会の利益には報い難いであろう。愛煙家は排斥され、酒飲みは軽蔑され、うんこ漏らしは推定有罪を受ける昨今である。

 

 

そんなとき、うんこ漏らす側の人間である私、としてはどうのような戦略をとるべきであろう?

私は、それほど政治的に好戦的な人間でもないし、とりあえず「社会」に従順な降りをするであろう。そして、うんこなんか全く漏らしてないような顔をするだろうし、採取的には、もしかしたら、わたしは自身うんこを漏らしそれを隠しながら、うんこ漏らしを公言した人間を糾弾するであろう(悲しいことに、想像するに)。

 


もし私が、情熱的な愛国者で民族主義者で、論理主義者であったなら、下記のマンデラ氏にもいたく共感したに違いない。



「中に入れ!さもないと、警棒を持った若いやつを五十人ほど連れてきて、おまえたちの頭をかち割ってやるぞ!」シャープヴィルの惨劇のあとなので、単なるこけおどしには聞こえなかった。

 ようすを見ようと中庭まで来た署長は、わたしに歩み寄ってきて、両手をポケットに入れていることをとがめた。「それが警察官に対する態度か?今すぐ、ポケットから手を出せ!」と、がなりたてる。わたしは、寒い日に散歩でもしているように、両手をさらに深くポケットに押し込んだ。そして、食事をさせてくれれば、ポケットから手を出してやってもいいと言った。

(中略)

翌朝わたしは署長室に呼ばれた。そこには、ロバート・レシャがいた。先には逮捕されたレジャは、署長じきじきの取り調べを受けていたのだ。わたしが部屋に入っていくと、レシャは署長に、昨夜なぜわたしをどなりつけたのか尋ねた。署長はいかにも白人のバース(親玉)らしく、「マンデラが生意気だったからだ」と答えた。わたしは、「あんたみたいな人間のために、ポケットから手を出す義理はない。あのときも、今もだ」と言った。(p338~同著)

 



わたしは こんな格好いい態度は取れないであろう、こんなセリフも一生かかっても出やしないだろう。


考えるに、わたしに出来ることは、うんこを漏らし続けること、だけであろう。「出来る」というか、そんなポジティブなもんでもなく、只それを止めることができないだけである。



それは主張でも、反抗でもなく、自然だからである。